経営・事業
1941(昭和16)年に日本が太平洋戦争に突入すると、資材不足がさらに顕著になった。金属だけでなく紙やセルロイドも重要統制物資となり、一時はバイデキスの外側のケースを一般需要向けに鋼材から木材に切り換えた。しかし十分な機能を持たすことができず、納入先から回収したこともあった。そのなかで徴兵や徴用が相次いで若い従業員が不足し、社内には年配者や女性の姿が目立った。ただ多くの企業が軍需工場へと転換するなかで、田中啓次郎社長は国策のみに迎合することなく、創業の精神である「事務合理化の普及と啓蒙」に則った経営を続けた。