1936(昭和11)年 経営・事業 バイデキスの販売拡大 田中啓次郎の苦境を救ったのがバイデキスだった。そして製造元のくろがね工作所は、田中に独占的にバイデキスを出荷し、一方では田中が去った後の東京の日本事務器には一切卸さなかった。この頃日本は1931(昭… 詳しい情報を見る 経営・事業 バイデキスの販売拡大 1936(昭和11)年 田中啓次郎の苦境を救ったのがバイデキスだった。そして製造元のくろがね工作所は、田中に独占的にバイデキスを出荷し、一方では田中が去った後の東京の日本事務器には一切卸さなかった。この頃日本は1931(昭和6)年の満州事変以降臨戦体制へと向かい、軍需生産強化のため生産管理の効率化が必要となっていた。台帳業務をやりやすくするバイデキスは、こうした用途をはじめとする工業生産の需要に応える情報機器だったのだ。1936(昭和11)年になると、さらに追い風が吹く。商工省がバイデキスを“優良国産品”に選定し、「退職積立金及退職手当法」をはじめとする法令が施行されて台帳管理用としての需要が急増した。 営業写真冊子
経営・事業 バイデキスの販売拡大 1936(昭和11)年 田中啓次郎の苦境を救ったのがバイデキスだった。そして製造元のくろがね工作所は、田中に独占的にバイデキスを出荷し、一方では田中が去った後の東京の日本事務器には一切卸さなかった。この頃日本は1931(昭和6)年の満州事変以降臨戦体制へと向かい、軍需生産強化のため生産管理の効率化が必要となっていた。台帳業務をやりやすくするバイデキスは、こうした用途をはじめとする工業生産の需要に応える情報機器だったのだ。1936(昭和11)年になると、さらに追い風が吹く。商工省がバイデキスを“優良国産品”に選定し、「退職積立金及退職手当法」をはじめとする法令が施行されて台帳管理用としての需要が急増した。 営業写真冊子
1937(昭和12)年 経営・事業 新規学卒者を採用 田中啓次郎はバイデキスの販売拡大活動に注力し、苦難期を脱して再び成長に転じる主力製品としていった。販売拡大を受けて、業務拡張のため1936(昭和11)年にくろがね工作所東京販売部を丸の内の仲4号館に… 詳しい情報を見る 経営・事業 新規学卒者を採用 1937(昭和12)年 田中啓次郎はバイデキスの販売拡大活動に注力し、苦難期を脱して再び成長に転じる主力製品としていった。販売拡大を受けて、業務拡張のため1936(昭和11)年にくろがね工作所東京販売部を丸の内の仲4号館に移転した。同年にはセールスマンを一般募集し、翌1937年には新規学卒の人材獲得に乗り出した。田中の母校の早稲田大学の推薦を受けて4名を採用。そのうちの1人が後の宮崎博社長だった。 人事拠点営業
経営・事業 新規学卒者を採用 1937(昭和12)年 田中啓次郎はバイデキスの販売拡大活動に注力し、苦難期を脱して再び成長に転じる主力製品としていった。販売拡大を受けて、業務拡張のため1936(昭和11)年にくろがね工作所東京販売部を丸の内の仲4号館に移転した。同年にはセールスマンを一般募集し、翌1937年には新規学卒の人材獲得に乗り出した。田中の母校の早稲田大学の推薦を受けて4名を採用。そのうちの1人が後の宮崎博社長だった。 人事拠点営業
1937(昭和12)年 製品・商品 帳簿型ビジブルレコーダを開発 据え置き型のバイデキスと同様の機能を持ちながら、手に持ちながらでも扱える帳簿型ビジブルレコーダの開発が1937(昭和12)年に始まった。きっかけは、バイデキス1台を備えるまでもない量の台帳の情報整理… 詳しい情報を見る 製品・商品 帳簿型ビジブルレコーダを開発 1937(昭和12)年 据え置き型のバイデキスと同様の機能を持ちながら、手に持ちながらでも扱える帳簿型ビジブルレコーダの開発が1937(昭和12)年に始まった。きっかけは、バイデキス1台を備えるまでもない量の台帳の情報整理をするビジブルレコーダはないかというお客様の声だった。バイデキスの引き出しを二つ折りにしたスチールブックは既にあったが、重いため電気の絶縁体であるプレスボードを表紙にして、これを「バイコ(VAICO)」の商品名で発売した。価格は1冊12.5円から13.5円で、当時バイデキスは8段型が1台90円から120円であった。 営業写真冊子商品
製品・商品 帳簿型ビジブルレコーダを開発 1937(昭和12)年 据え置き型のバイデキスと同様の機能を持ちながら、手に持ちながらでも扱える帳簿型ビジブルレコーダの開発が1937(昭和12)年に始まった。きっかけは、バイデキス1台を備えるまでもない量の台帳の情報整理をするビジブルレコーダはないかというお客様の声だった。バイデキスの引き出しを二つ折りにしたスチールブックは既にあったが、重いため電気の絶縁体であるプレスボードを表紙にして、これを「バイコ(VAICO)」の商品名で発売した。価格は1冊12.5円から13.5円で、当時バイデキスは8段型が1台90円から120円であった。 営業写真冊子商品
1937(昭和12)年 経営・事業製品・商品 バイデキスが好調、第二の繁栄期に 1937(昭和12)年に大阪のくろがね工作所販売部は、西区京町堀の京町ビルに移転した。ここに代理店業務を担当する地方部が置かれた。この年に北海道から九州まで全国に50を超える代理店を展開。受注先が増… 詳しい情報を見る 経営・事業製品・商品 バイデキスが好調、第二の繁栄期に 1937(昭和12)年 1937(昭和12)年に大阪のくろがね工作所販売部は、西区京町堀の京町ビルに移転した。ここに代理店業務を担当する地方部が置かれた。この年に北海道から九州まで全国に50を超える代理店を展開。受注先が増加するとともに、1件当たりの納入台数も数十台から100台規模に拡大していった。翌1938(昭和13)年1月には福岡支店を開設。続いて朝鮮、台湾、満州にも代理店の販売網を広げていった。田中啓次郎の日本事務器商会は第二の黄金期を迎えたのである。この頃について田中が「ほんとに儲かる。まったく金持ちになったという実感がありました」と語ったのもうなずける。従業員にも収益が還元され、半期で最低6カ月の賞与のほかに中間賞与も出された。 経営組織営業写真商品
経営・事業製品・商品 バイデキスが好調、第二の繁栄期に 1937(昭和12)年 1937(昭和12)年に大阪のくろがね工作所販売部は、西区京町堀の京町ビルに移転した。ここに代理店業務を担当する地方部が置かれた。この年に北海道から九州まで全国に50を超える代理店を展開。受注先が増加するとともに、1件当たりの納入台数も数十台から100台規模に拡大していった。翌1938(昭和13)年1月には福岡支店を開設。続いて朝鮮、台湾、満州にも代理店の販売網を広げていった。田中啓次郎の日本事務器商会は第二の黄金期を迎えたのである。この頃について田中が「ほんとに儲かる。まったく金持ちになったという実感がありました」と語ったのもうなずける。従業員にも収益が還元され、半期で最低6カ月の賞与のほかに中間賞与も出された。 経営組織営業写真商品
1939(昭和14)年 製品・商品 輪転謄写機を販売 新聞印刷用インクメーカーの阪田商会からの申し入れを受け、輪転謄写機を取り扱うようになった。「サカタ輪転謄写機」は自動給紙方式で、性能が優秀なことで知られていた。この機械の販売を拡大し、印刷用インクを… 詳しい情報を見る 製品・商品 輪転謄写機を販売 1939(昭和14)年 新聞印刷用インクメーカーの阪田商会からの申し入れを受け、輪転謄写機を取り扱うようになった。「サカタ輪転謄写機」は自動給紙方式で、性能が優秀なことで知られていた。この機械の販売を拡大し、印刷用インクを売るために、パートナーとして田中啓次郎の日本事務器商会に白羽の矢が立ったのである。新聞社にニュースを流す通信社をはじめとして需要は十分にあった。だが1942(昭和17)年に阪田商会の工場が火災で焼失し、再建のめどが立たなくなった。日本事務器商会はこの輪転謄写機を独占的に扱っていたが、残念ながら3年足らずで終わることになった。 営業写真商品
製品・商品 輪転謄写機を販売 1939(昭和14)年 新聞印刷用インクメーカーの阪田商会からの申し入れを受け、輪転謄写機を取り扱うようになった。「サカタ輪転謄写機」は自動給紙方式で、性能が優秀なことで知られていた。この機械の販売を拡大し、印刷用インクを売るために、パートナーとして田中啓次郎の日本事務器商会に白羽の矢が立ったのである。新聞社にニュースを流す通信社をはじめとして需要は十分にあった。だが1942(昭和17)年に阪田商会の工場が火災で焼失し、再建のめどが立たなくなった。日本事務器商会はこの輪転謄写機を独占的に扱っていたが、残念ながら3年足らずで終わることになった。 営業写真商品
1940(昭和15)年 製品・商品 バイデキスが製造中止へ 1940(昭和15)年、米国などによる経済封鎖で鉄が国内で不足するようになったため、鉄鋼製品は軍需品を除いて製造が禁止された。スチール製のバイデキスもその対象となった。一方でバイコは金属類の材料をほ… 詳しい情報を見る 製品・商品 バイデキスが製造中止へ 1940(昭和15)年 1940(昭和15)年、米国などによる経済封鎖で鉄が国内で不足するようになったため、鉄鋼製品は軍需品を除いて製造が禁止された。スチール製のバイデキスもその対象となった。一方でバイコは金属類の材料をほとんど使わないため、バイデキスの在庫を一掃した後はその販売に注力した。月間1万冊を目標としたところ、大幅に上回る注文が殺到。1942(昭和17)年には約5万冊を販売し、1件で730台を貨車3両に積むという大型受注の記録を作った。だがバイコも資材不足で軍需向けの生産しか認められなくなっていった。 営業
製品・商品 バイデキスが製造中止へ 1940(昭和15)年 1940(昭和15)年、米国などによる経済封鎖で鉄が国内で不足するようになったため、鉄鋼製品は軍需品を除いて製造が禁止された。スチール製のバイデキスもその対象となった。一方でバイコは金属類の材料をほとんど使わないため、バイデキスの在庫を一掃した後はその販売に注力した。月間1万冊を目標としたところ、大幅に上回る注文が殺到。1942(昭和17)年には約5万冊を販売し、1件で730台を貨車3両に積むという大型受注の記録を作った。だがバイコも資材不足で軍需向けの生産しか認められなくなっていった。 営業
1947(昭和22)年 製品・商品 スチール製バイデキスの生産再開 敗戦後の混乱の中で、事務機器の新たな需要をもたらしたのは進駐軍だった。占領政策に基づく行政事務を能率的に行うのにビジブルレコーダなどが使われ、その補充のために日本での現地調達が計画された。日本事務器… 詳しい情報を見る 製品・商品 スチール製バイデキスの生産再開 1947(昭和22)年 敗戦後の混乱の中で、事務機器の新たな需要をもたらしたのは進駐軍だった。占領政策に基づく行政事務を能率的に行うのにビジブルレコーダなどが使われ、その補充のために日本での現地調達が計画された。日本事務器はこれに応えて、在庫のあった木製バイデキスやバイコを独占的に供給した。1947(昭和22)年には、鉄鋼製品の製造が解除になったことを受けてスチール製バイデキスの生産を再開した。 営業
製品・商品 スチール製バイデキスの生産再開 1947(昭和22)年 敗戦後の混乱の中で、事務機器の新たな需要をもたらしたのは進駐軍だった。占領政策に基づく行政事務を能率的に行うのにビジブルレコーダなどが使われ、その補充のために日本での現地調達が計画された。日本事務器はこれに応えて、在庫のあった木製バイデキスやバイコを独占的に供給した。1947(昭和22)年には、鉄鋼製品の製造が解除になったことを受けてスチール製バイデキスの生産を再開した。 営業