1934(昭和9)年 経営・事業 田中啓次郎社長が代表の座を追われる この時期、資金面で経営の支援を受けていた人々がいた。ところが彼らは、それまで融資した額を一括返済するように要請し、できなければ田中啓次郎社長に代表を退くよう求めた。事実上の乗っ取り宣言である。田中社… 詳しい情報を見る 経営・事業 田中啓次郎社長が代表の座を追われる 1934(昭和9)年 この時期、資金面で経営の支援を受けていた人々がいた。ところが彼らは、それまで融資した額を一括返済するように要請し、できなければ田中啓次郎社長に代表を退くよう求めた。事実上の乗っ取り宣言である。田中社長はこれを受け入れざるを得ず、1934(昭和9)年に合資会社日本事務器商会の本社を去り、丸ビルには新たに日本事務器合資会社の看板が掲げられた。ほかにも債権者が多い東京からくろがね工作所がある大阪に拠点を移した田中は、東の販売拠点をくろがね工作所東京販売部に置いた。 役員経営人事写真商品
経営・事業 田中啓次郎社長が代表の座を追われる 1934(昭和9)年 この時期、資金面で経営の支援を受けていた人々がいた。ところが彼らは、それまで融資した額を一括返済するように要請し、できなければ田中啓次郎社長に代表を退くよう求めた。事実上の乗っ取り宣言である。田中社長はこれを受け入れざるを得ず、1934(昭和9)年に合資会社日本事務器商会の本社を去り、丸ビルには新たに日本事務器合資会社の看板が掲げられた。ほかにも債権者が多い東京からくろがね工作所がある大阪に拠点を移した田中は、東の販売拠点をくろがね工作所東京販売部に置いた。 役員経営人事写真商品
1940(昭和15)年 経営・事業 債務を完済し丸ビルでの事業を再開 業績の回復により、田中啓次郎は負債を一気に債権者に完済した。1940(昭和15)年のことである。これに伴い日本事務器合資会社の代表となり、名実ともに経営者の座を取り戻した。東京では丸ビルに支配人を置… 詳しい情報を見る 経営・事業 債務を完済し丸ビルでの事業を再開 1940(昭和15)年 業績の回復により、田中啓次郎は負債を一気に債権者に完済した。1940(昭和15)年のことである。これに伴い日本事務器合資会社の代表となり、名実ともに経営者の座を取り戻した。東京では丸ビルに支配人を置いてくろがね工作所東京販売部と合わせて活動した。大阪のくろがね工作所販売部も継続し、1944(昭和19)年10月に日本事務器合資会社大阪営業所となった。なお1940(昭和15)年時点で従業員は丸ビル5~6名、東京販売部10名、大阪営業所約30名の陣容であった。 役員経営組織拠点
経営・事業 債務を完済し丸ビルでの事業を再開 1940(昭和15)年 業績の回復により、田中啓次郎は負債を一気に債権者に完済した。1940(昭和15)年のことである。これに伴い日本事務器合資会社の代表となり、名実ともに経営者の座を取り戻した。東京では丸ビルに支配人を置いてくろがね工作所東京販売部と合わせて活動した。大阪のくろがね工作所販売部も継続し、1944(昭和19)年10月に日本事務器合資会社大阪営業所となった。なお1940(昭和15)年時点で従業員は丸ビル5~6名、東京販売部10名、大阪営業所約30名の陣容であった。 役員経営組織拠点
1948(昭和23)年6月 経営・事業 日本事務器株式会社を設立 1948(昭和23)年6月30日、日本事務器合資会社を株式会社に組織変更し、日本事務器株式会社としてスタートした(以後、当社)。資本金150万円、代表取締役社長は田中啓次郎である。同年12月には資本… 詳しい情報を見る 経営・事業 日本事務器株式会社を設立 1948(昭和23)年6月 1948(昭和23)年6月30日、日本事務器合資会社を株式会社に組織変更し、日本事務器株式会社としてスタートした(以後、当社)。資本金150万円、代表取締役社長は田中啓次郎である。同年12月には資本金300万円となり、以後ほぼ毎年増資を続けた。 役員経営
経営・事業 日本事務器株式会社を設立 1948(昭和23)年6月 1948(昭和23)年6月30日、日本事務器合資会社を株式会社に組織変更し、日本事務器株式会社としてスタートした(以後、当社)。資本金150万円、代表取締役社長は田中啓次郎である。同年12月には資本金300万円となり、以後ほぼ毎年増資を続けた。 役員経営
1948(昭和23)年 経営・事業 各地に関連会社を設立 日本事務器商会の株式会社への改組とともに、バイデキスおよびバイコの卸部門を独立させてバイコ販売株式会社(資本金150万円)を設立し大阪に拠点を置いた。また営業拠点として株式会社神戸日本事務器を設立し… 詳しい情報を見る 経営・事業 各地に関連会社を設立 1948(昭和23)年 日本事務器商会の株式会社への改組とともに、バイデキスおよびバイコの卸部門を独立させてバイコ販売株式会社(資本金150万円)を設立し大阪に拠点を置いた。また営業拠点として株式会社神戸日本事務器を設立し、福岡支社を株式会社福岡日本事務器とした(いずれも資本金50万円)。これらの関連会社は田中啓次郎社長が代表を兼務した。バイデキスとバイコが使用するカードを印刷するため、くろがね印刷株式会社(資本金100万円)も傍系会社として設立した。 役員関連会社
経営・事業 各地に関連会社を設立 1948(昭和23)年 日本事務器商会の株式会社への改組とともに、バイデキスおよびバイコの卸部門を独立させてバイコ販売株式会社(資本金150万円)を設立し大阪に拠点を置いた。また営業拠点として株式会社神戸日本事務器を設立し、福岡支社を株式会社福岡日本事務器とした(いずれも資本金50万円)。これらの関連会社は田中啓次郎社長が代表を兼務した。バイデキスとバイコが使用するカードを印刷するため、くろがね印刷株式会社(資本金100万円)も傍系会社として設立した。 役員関連会社
1966(昭和41)年1月 経営・事業 田中啓次郎社長の会長就任と宮崎博専務取締役の社長就任 当社の経営を長きにわたり牽引してきた田中啓次郎社長は、専務取締役の宮崎博を後任の取締役社長に指名し、自らは取締役会長に就任した。これは若返りによる企業の体質強化を提唱してきたが、その機が熟したという… 詳しい情報を見る 経営・事業 田中啓次郎社長の会長就任と宮崎博専務取締役の社長就任 1966(昭和41)年1月 当社の経営を長きにわたり牽引してきた田中啓次郎社長は、専務取締役の宮崎博を後任の取締役社長に指名し、自らは取締役会長に就任した。これは若返りによる企業の体質強化を提唱してきたが、その機が熟したという決断によるものだった。なおこのとき人事では、40代の支店長および副本部長営業担当が新たに取締役に選任されるなど、役員や部長クラスの世代交代も進められた。 役員経営写真
経営・事業 田中啓次郎社長の会長就任と宮崎博専務取締役の社長就任 1966(昭和41)年1月 当社の経営を長きにわたり牽引してきた田中啓次郎社長は、専務取締役の宮崎博を後任の取締役社長に指名し、自らは取締役会長に就任した。これは若返りによる企業の体質強化を提唱してきたが、その機が熟したという決断によるものだった。なおこのとき人事では、40代の支店長および副本部長営業担当が新たに取締役に選任されるなど、役員や部長クラスの世代交代も進められた。 役員経営写真
1976(昭和51)年7月 経営・事業 業績悪化で田中啓次郎会長が代表取締役に復帰、山崎恒専務が社長就任 当社の業績は目に見えて悪化し、倒産の危機に直面した。法人筆頭株主である日本電気とも協議したが、自力による経営建て直しは難しく、同社の全面的な救済によるしかないとの結論に至った。この非常事態に対応すべ… 詳しい情報を見る 経営・事業 業績悪化で田中啓次郎会長が代表取締役に復帰、山崎恒専務が社長就任 1976(昭和51)年7月 当社の業績は目に見えて悪化し、倒産の危機に直面した。法人筆頭株主である日本電気とも協議したが、自力による経営建て直しは難しく、同社の全面的な救済によるしかないとの結論に至った。この非常事態に対応すべく、1976(昭和51)年7月に宮崎博社長と菅野久光常務が退任し、山崎恒専務が代表取締役社長に就くとともに田中啓次郎会長が代表取締役に復帰した。 役員経営
経営・事業 業績悪化で田中啓次郎会長が代表取締役に復帰、山崎恒専務が社長就任 1976(昭和51)年7月 当社の業績は目に見えて悪化し、倒産の危機に直面した。法人筆頭株主である日本電気とも協議したが、自力による経営建て直しは難しく、同社の全面的な救済によるしかないとの結論に至った。この非常事態に対応すべく、1976(昭和51)年7月に宮崎博社長と菅野久光常務が退任し、山崎恒専務が代表取締役社長に就くとともに田中啓次郎会長が代表取締役に復帰した。 役員経営
1981(昭和56)年5月 経営・事業 創業者の田中啓次郎会長が逝去 1981(昭和56)年に入ると、上期から受注が順調に推移し、年間の受注および売上が100億円を突破した。だがこの年5月16日、創業者で代表取締役会長の田中啓次郎が急逝。享年90歳であった。57年間に… 詳しい情報を見る 経営・事業 創業者の田中啓次郎会長が逝去 1981(昭和56)年5月 1981(昭和56)年に入ると、上期から受注が順調に推移し、年間の受注および売上が100億円を突破した。だがこの年5月16日、創業者で代表取締役会長の田中啓次郎が急逝。享年90歳であった。57年間にわたり社業の発展拡大を先頭に立って進めてきた田中会長を見送るため、6月8日には東京・築地本願寺で社葬を執り行った。 役員
経営・事業 創業者の田中啓次郎会長が逝去 1981(昭和56)年5月 1981(昭和56)年に入ると、上期から受注が順調に推移し、年間の受注および売上が100億円を突破した。だがこの年5月16日、創業者で代表取締役会長の田中啓次郎が急逝。享年90歳であった。57年間にわたり社業の発展拡大を先頭に立って進めてきた田中会長を見送るため、6月8日には東京・築地本願寺で社葬を執り行った。 役員
1983(昭和58)年2月 経営・事業 竹中博夫社長就任 創業60周年を迎えた1983(昭和58)年2月、全国各地で記念式典が開催された。累積赤字を一掃してからまだ時間が経っていないこともあり、主に社内の記念行事を行うこととした。前年秋から70年へ向けての… 詳しい情報を見る 経営・事業 竹中博夫社長就任 1983(昭和58)年2月 創業60周年を迎えた1983(昭和58)年2月、全国各地で記念式典が開催された。累積赤字を一掃してからまだ時間が経っていないこともあり、主に社内の記念行事を行うこととした。前年秋から70年へ向けてのスローガンを募集していたが、優秀作には「チャレンジ70! めざせ活力ある 豊かな企業」が選ばれた。同年6月の臨時株主総会では、田中信行取締役会長、竹中博夫取締役社長の就任が発表され、経営再建に尽力した山崎前社長は取締役相談役となった。 役員経営写真
経営・事業 竹中博夫社長就任 1983(昭和58)年2月 創業60周年を迎えた1983(昭和58)年2月、全国各地で記念式典が開催された。累積赤字を一掃してからまだ時間が経っていないこともあり、主に社内の記念行事を行うこととした。前年秋から70年へ向けてのスローガンを募集していたが、優秀作には「チャレンジ70! めざせ活力ある 豊かな企業」が選ばれた。同年6月の臨時株主総会では、田中信行取締役会長、竹中博夫取締役社長の就任が発表され、経営再建に尽力した山崎前社長は取締役相談役となった。 役員経営写真