1950(昭和25)年 製品・商品 機械式計算機を開発し発売 東芝の関連会社である東京電気と提携して、機械式のオドナー型計算機の開発に着手した。そして1953(昭和28)年に「ブルースター(Blue Star)」の商品名で発売した。既に市場を独占していた同種の… 詳しい情報を見る 製品・商品 機械式計算機を開発し発売 1950(昭和25)年 東芝の関連会社である東京電気と提携して、機械式のオドナー型計算機の開発に着手した。そして1953(昭和28)年に「ブルースター(Blue Star)」の商品名で発売した。既に市場を独占していた同種の計算機もあったが、当時国産計算機は有力商品で、当社はこれをオリジナルの看板商品として売り込もうとした。ところが1954(昭和29)年に東芝事務機が設立されて、ここが東京電気の製品を扱うことになった。商流が複雑になるためやむを得ずこの計算機の代理店営業を取り止め、本店および支店の営業エリアを対象に直販に専念した。 経営開発写真商品
製品・商品 機械式計算機を開発し発売 1950(昭和25)年 東芝の関連会社である東京電気と提携して、機械式のオドナー型計算機の開発に着手した。そして1953(昭和28)年に「ブルースター(Blue Star)」の商品名で発売した。既に市場を独占していた同種の計算機もあったが、当時国産計算機は有力商品で、当社はこれをオリジナルの看板商品として売り込もうとした。ところが1954(昭和29)年に東芝事務機が設立されて、ここが東京電気の製品を扱うことになった。商流が複雑になるためやむを得ずこの計算機の代理店営業を取り止め、本店および支店の営業エリアを対象に直販に専念した。 経営開発写真商品
1954(昭和29)年6月 経営・事業 創業30周年記念式典ならびに祝賀会 創業30周年の記念式典を本社2階で開催した。出席者は田中啓次郎社長夫妻、本社従業員、支店長、事務器サービスの全員と来賓を加えて総勢77名であった。田中社長の式辞、来賓祝辞などに続いて、新入社員の設営… 詳しい情報を見る 経営・事業 創業30周年記念式典ならびに祝賀会 1954(昭和29)年6月 創業30周年の記念式典を本社2階で開催した。出席者は田中啓次郎社長夫妻、本社従業員、支店長、事務器サービスの全員と来賓を加えて総勢77名であった。田中社長の式辞、来賓祝辞などに続いて、新入社員の設営による祝賀会が行われた。合わせて永年勤続功労者に記念品が授与され、また田中社長夫妻に全員からの記念品が贈呈された。 経営
経営・事業 創業30周年記念式典ならびに祝賀会 1954(昭和29)年6月 創業30周年の記念式典を本社2階で開催した。出席者は田中啓次郎社長夫妻、本社従業員、支店長、事務器サービスの全員と来賓を加えて総勢77名であった。田中社長の式辞、来賓祝辞などに続いて、新入社員の設営による祝賀会が行われた。合わせて永年勤続功労者に記念品が授与され、また田中社長夫妻に全員からの記念品が贈呈された。 経営
1956(昭和31)年 経営・事業 拡大3カ年計画がスタート 創業30周年となった1954(昭和29)年はデフレによる不況期で、その影響で当社の業績も振るわず、赤字計上、給料の分割支給を余儀なくされた。その翌年からは景気回復の兆しが見られるようになり、1956… 詳しい情報を見る 経営・事業 拡大3カ年計画がスタート 1956(昭和31)年 創業30周年となった1954(昭和29)年はデフレによる不況期で、その影響で当社の業績も振るわず、赤字計上、給料の分割支給を余儀なくされた。その翌年からは景気回復の兆しが見られるようになり、1956(昭和31)年には当社の拡大3カ年計画がスタートした。具体的には一人当たりの売上増強、人事異動と新人の起用による人心刷新、増資などを実施することとした。同年6月には組織機構を改めて器械部を解体し、東京営業部の各販売課が商品を分担する体制にした。併せて営業部に地方課を置き、地方各支店との連絡調整と東京営業部管内の代理店業務を担当した。 経営
経営・事業 拡大3カ年計画がスタート 1956(昭和31)年 創業30周年となった1954(昭和29)年はデフレによる不況期で、その影響で当社の業績も振るわず、赤字計上、給料の分割支給を余儀なくされた。その翌年からは景気回復の兆しが見られるようになり、1956(昭和31)年には当社の拡大3カ年計画がスタートした。具体的には一人当たりの売上増強、人事異動と新人の起用による人心刷新、増資などを実施することとした。同年6月には組織機構を改めて器械部を解体し、東京営業部の各販売課が商品を分担する体制にした。併せて営業部に地方課を置き、地方各支店との連絡調整と東京営業部管内の代理店業務を担当した。 経営
1957(昭和32)年5月 経営・事業 福岡支店ビル落成で記念式典を実施 1957(昭和32)年の年頭にあたり、田中啓次郎社長は前述のタイプ部の新設と合わせて、九州支店の新設、海外研修の実施といった方針を示した。同年3月には九州支店が新築途中のビルに移転し、5月には支店開… 詳しい情報を見る 経営・事業 福岡支店ビル落成で記念式典を実施 1957(昭和32)年5月 1957(昭和32)年の年頭にあたり、田中啓次郎社長は前述のタイプ部の新設と合わせて、九州支店の新設、海外研修の実施といった方針を示した。同年3月には九州支店が新築途中のビルに移転し、5月には支店開設20周年記念とビル落成式を兼ねた祝賀会と功労者表彰が行われた。これと前後して1955(昭和30)年には札幌支店、1956(昭和31)年に横浜出張所と仙台出張所、1958(昭和33)年に広島出張所が開設され、営業所の全国展開が進んだ。 経営拠点写真
経営・事業 福岡支店ビル落成で記念式典を実施 1957(昭和32)年5月 1957(昭和32)年の年頭にあたり、田中啓次郎社長は前述のタイプ部の新設と合わせて、九州支店の新設、海外研修の実施といった方針を示した。同年3月には九州支店が新築途中のビルに移転し、5月には支店開設20周年記念とビル落成式を兼ねた祝賀会と功労者表彰が行われた。これと前後して1955(昭和30)年には札幌支店、1956(昭和31)年に横浜出張所と仙台出張所、1958(昭和33)年に広島出張所が開設され、営業所の全国展開が進んだ。 経営拠点写真
1958(昭和33)年 経営・事業 拡大3カ年計画の目標をほぼ達成 拡大3カ年計画の目標の一つだった増資は予定通り満額実施し、1956(昭和31)年度に当社の資本金は2,000万円となった。計画最終年となった1958(昭和33)年は、前年からの神武景気も後押しして所… 詳しい情報を見る 経営・事業 拡大3カ年計画の目標をほぼ達成 1958(昭和33)年 拡大3カ年計画の目標の一つだった増資は予定通り満額実施し、1956(昭和31)年度に当社の資本金は2,000万円となった。計画最終年となった1958(昭和33)年は、前年からの神武景気も後押しして所期の数値目標をほぼ達成した。この年4月には東京本社および各地の主要支店に販売企画調査係が置かれ、セールスプロモーションなど販売企画の方針の検討と本社および支店間の意思疎通を行うこととなった。 経営
経営・事業 拡大3カ年計画の目標をほぼ達成 1958(昭和33)年 拡大3カ年計画の目標の一つだった増資は予定通り満額実施し、1956(昭和31)年度に当社の資本金は2,000万円となった。計画最終年となった1958(昭和33)年は、前年からの神武景気も後押しして所期の数値目標をほぼ達成した。この年4月には東京本社および各地の主要支店に販売企画調査係が置かれ、セールスプロモーションなど販売企画の方針の検討と本社および支店間の意思疎通を行うこととなった。 経営
1959(昭和34)年4月 経営・事業 日本電気と首脳陣第1回会談 1959(昭和34)年には、当社が後に電子計算機の取り扱いに大きく舵を切る端緒となった会談が行われた。日本電気と当社の首脳陣による第1回会談である。4月に目黒の八芳園で行われた。このときは経営層の顔… 詳しい情報を見る 経営・事業 日本電気と首脳陣第1回会談 1959(昭和34)年4月 1959(昭和34)年には、当社が後に電子計算機の取り扱いに大きく舵を切る端緒となった会談が行われた。日本電気と当社の首脳陣による第1回会談である。4月に目黒の八芳園で行われた。このときは経営層の顔合わせが主な目的であったが、双方ともに電子計算機の取り扱いを念頭においていたことは想像に難くない。 経営
経営・事業 日本電気と首脳陣第1回会談 1959(昭和34)年4月 1959(昭和34)年には、当社が後に電子計算機の取り扱いに大きく舵を切る端緒となった会談が行われた。日本電気と当社の首脳陣による第1回会談である。4月に目黒の八芳園で行われた。このときは経営層の顔合わせが主な目的であったが、双方ともに電子計算機の取り扱いを念頭においていたことは想像に難くない。 経営