1924(大正13)年2月 経営・事業 日本事務器商会の創業 東京日本橋の加島銀行ビルの一室で、日本事務器商会(日本事務器の前身)が創業した。創業者の田中啓次郎は、日本の事務機器輸入の草分けである黒澤商店(現・クロサワ)で支配人を務めていた。ところが1923(… 詳しい情報を見る 経営・事業 日本事務器商会の創業 1924(大正13)年2月 東京日本橋の加島銀行ビルの一室で、日本事務器商会(日本事務器の前身)が創業した。創業者の田中啓次郎は、日本の事務機器輸入の草分けである黒澤商店(現・クロサワ)で支配人を務めていた。ところが1923(大正12)年9月に関東大震災が発生すると、黒澤商店は店舗と工場が被災して資産をすべて失った。田中は自分が残ることが黒澤商店の復興の負担になると判断し、同社を辞して創業の道を選んだ。 経営写真
経営・事業 日本事務器商会の創業 1924(大正13)年2月 東京日本橋の加島銀行ビルの一室で、日本事務器商会(日本事務器の前身)が創業した。創業者の田中啓次郎は、日本の事務機器輸入の草分けである黒澤商店(現・クロサワ)で支配人を務めていた。ところが1923(大正12)年9月に関東大震災が発生すると、黒澤商店は店舗と工場が被災して資産をすべて失った。田中は自分が残ることが黒澤商店の復興の負担になると判断し、同社を辞して創業の道を選んだ。 経営写真
1924(大正13)年2月 経営・事業 創業の精神「事務合理化の普及と啓蒙」 日本事務器商会が創業した頃は、まだペンとそろばんで事務処理を行っていた時代である。そこに欧米の事務機械を紹介しても、実際に導入してもらうまでには至らなかった。田中啓次郎は、「事務合理化の普及と啓蒙」… 詳しい情報を見る 経営・事業 創業の精神「事務合理化の普及と啓蒙」 1924(大正13)年2月 日本事務器商会が創業した頃は、まだペンとそろばんで事務処理を行っていた時代である。そこに欧米の事務機械を紹介しても、実際に導入してもらうまでには至らなかった。田中啓次郎は、「事務合理化の普及と啓蒙」を行うことが、自分たちの会社の果たすべき使命であると考え、次のような言葉を残している。 「当社は、日本の事務界が、まだ筆・墨・紙その他の文房具を相手に、事務を雑務として行っていた時代から、高度の効率的事務システムへの移行を必要としていることに着眼し、業界もまたこれにふさわしい進み方をせねばならないという理念の下に出発しました。いわゆる文房具商から高級事務用機械器具の新しい分野を打ち立てようとして、この仕事を始めたのです。」 この創業の精神は、コンピュータが登場し、ネットワークシステムによる事務処理が当たり前となった現代になっても通用する普遍性を持っている。 経営ブランド
経営・事業 創業の精神「事務合理化の普及と啓蒙」 1924(大正13)年2月 日本事務器商会が創業した頃は、まだペンとそろばんで事務処理を行っていた時代である。そこに欧米の事務機械を紹介しても、実際に導入してもらうまでには至らなかった。田中啓次郎は、「事務合理化の普及と啓蒙」を行うことが、自分たちの会社の果たすべき使命であると考え、次のような言葉を残している。 「当社は、日本の事務界が、まだ筆・墨・紙その他の文房具を相手に、事務を雑務として行っていた時代から、高度の効率的事務システムへの移行を必要としていることに着眼し、業界もまたこれにふさわしい進み方をせねばならないという理念の下に出発しました。いわゆる文房具商から高級事務用機械器具の新しい分野を打ち立てようとして、この仕事を始めたのです。」 この創業の精神は、コンピュータが登場し、ネットワークシステムによる事務処理が当たり前となった現代になっても通用する普遍性を持っている。 経営ブランド
1924(大正13)年2月 経営・事業 創業時の経営理念 田中啓次郎は1924(大正13)年に日本事務器の前身である日本事務器商会を創業した当初から、会社が理想とする次のようなあり方を念頭においていた。 ・目先の成功を追うのではなく、将来の大成… 詳しい情報を見る 経営・事業 創業時の経営理念 1924(大正13)年2月 田中啓次郎は1924(大正13)年に日本事務器の前身である日本事務器商会を創業した当初から、会社が理想とする次のようなあり方を念頭においていた。 ・目先の成功を追うのではなく、将来の大成を期する。そのためには、当面する苦難は次々と克服すること。 ・会社は、専業を旗印として運営し、終生変わることのないこと。 ・商売を金儲けの手段とするのではなく、利潤はむしろ二の次とし、もっぱら社業の育成を図ること。 ・取扱商品は事務機器に限り、いわゆる文具業界からは完全に独立すること。 ・取扱商品は、たんにそれを右から左へ売買すればよいというものではなく、それの活用によって、ユーザーが利益を得るものであること、と同時に需要者を啓蒙し、その商品の購入が有利な投資であることを知らしめること。 つまり、社会の役に立つことを第一として、ユーザーの立場からどうあるべきかを考え、利益は第二とする、ということである。社会的使命を果たすために会社は存在する──この創業の精神こそが、100年企業となった今日まで当社が発展を続ける礎となっている。 経営ブランド
経営・事業 創業時の経営理念 1924(大正13)年2月 田中啓次郎は1924(大正13)年に日本事務器の前身である日本事務器商会を創業した当初から、会社が理想とする次のようなあり方を念頭においていた。 ・目先の成功を追うのではなく、将来の大成を期する。そのためには、当面する苦難は次々と克服すること。 ・会社は、専業を旗印として運営し、終生変わることのないこと。 ・商売を金儲けの手段とするのではなく、利潤はむしろ二の次とし、もっぱら社業の育成を図ること。 ・取扱商品は事務機器に限り、いわゆる文具業界からは完全に独立すること。 ・取扱商品は、たんにそれを右から左へ売買すればよいというものではなく、それの活用によって、ユーザーが利益を得るものであること、と同時に需要者を啓蒙し、その商品の購入が有利な投資であることを知らしめること。 つまり、社会の役に立つことを第一として、ユーザーの立場からどうあるべきかを考え、利益は第二とする、ということである。社会的使命を果たすために会社は存在する──この創業の精神こそが、100年企業となった今日まで当社が発展を続ける礎となっている。 経営ブランド
1924(大正13)年2月 経営・事業 社名の「器」に込めた思い 日本事務器という社名の「事務器」は、創業時に周囲から目新しく感じられる言葉だった。というのはそれまで「事務」という言葉は「事務用文具」「事務用備品」「事務用器具」のように、「事務用」という形容詞の形… 詳しい情報を見る 経営・事業 社名の「器」に込めた思い 1924(大正13)年2月 日本事務器という社名の「事務器」は、創業時に周囲から目新しく感じられる言葉だった。というのはそれまで「事務」という言葉は「事務用文具」「事務用備品」「事務用器具」のように、「事務用」という形容詞の形で使われることが多く、「用」を取ってなおかつ「事務器」という名詞にすることは珍しかったからである。この用語は、長年事務用機器を取り扱ってきた創業者の田中啓次郎の発案とされている。今日ではコンピュータをはじめ事務作業を機械化、自動化する機器の名称として「事務器」は当たり前になっているが、100年前に田中啓次郎はその流れを先読みしていたのではないだろうか。こうした「事務器」の発展を願う思いが、社名に込められている。 経営ブランド
経営・事業 社名の「器」に込めた思い 1924(大正13)年2月 日本事務器という社名の「事務器」は、創業時に周囲から目新しく感じられる言葉だった。というのはそれまで「事務」という言葉は「事務用文具」「事務用備品」「事務用器具」のように、「事務用」という形容詞の形で使われることが多く、「用」を取ってなおかつ「事務器」という名詞にすることは珍しかったからである。この用語は、長年事務用機器を取り扱ってきた創業者の田中啓次郎の発案とされている。今日ではコンピュータをはじめ事務作業を機械化、自動化する機器の名称として「事務器」は当たり前になっているが、100年前に田中啓次郎はその流れを先読みしていたのではないだろうか。こうした「事務器」の発展を願う思いが、社名に込められている。 経営ブランド
1929(昭和4)年 経営・事業 事務機器の輸入禁止と円の暴落 1929(昭和4)年は、米国ニューヨーク株式市場の大暴落により世界恐慌が起きた年として長く記憶されることとなった。だが日本ではそれ以前、1927(昭和2)年から不況に突入し、企業の倒産が相次いだ。政… 詳しい情報を見る 経営・事業 事務機器の輸入禁止と円の暴落 1929(昭和4)年 1929(昭和4)年は、米国ニューヨーク株式市場の大暴落により世界恐慌が起きた年として長く記憶されることとなった。だが日本ではそれ以前、1927(昭和2)年から不況に突入し、企業の倒産が相次いだ。政府は国際収支改善のため輸入抑制・国産奨励策をとった。1929(昭和4)年には事務機器が輸入できなくなったことで、取扱商品のほとんどが輸入販売だった日本事務器商会には大きな打撃となった。既に海外から入荷したり、輸入を決めていたりした商品の代金支払いはドル建てで行う必要があり、円の暴落が追い打ちをかけた。 経営
経営・事業 事務機器の輸入禁止と円の暴落 1929(昭和4)年 1929(昭和4)年は、米国ニューヨーク株式市場の大暴落により世界恐慌が起きた年として長く記憶されることとなった。だが日本ではそれ以前、1927(昭和2)年から不況に突入し、企業の倒産が相次いだ。政府は国際収支改善のため輸入抑制・国産奨励策をとった。1929(昭和4)年には事務機器が輸入できなくなったことで、取扱商品のほとんどが輸入販売だった日本事務器商会には大きな打撃となった。既に海外から入荷したり、輸入を決めていたりした商品の代金支払いはドル建てで行う必要があり、円の暴落が追い打ちをかけた。 経営
1929(昭和4)年 経営・事業 人が去り、一方で借金にも追われる 輸入禁止と円暴落のダブルパンチを浴びた日本事務器商会は、第一期の繁栄期から一転して1929(昭和4)年以降、苦境にあえぐことになった。主な従業員の独立や協力者の撤退が目立つようになり、人が去る一方で… 詳しい情報を見る 経営・事業 人が去り、一方で借金にも追われる 1929(昭和4)年 輸入禁止と円暴落のダブルパンチを浴びた日本事務器商会は、第一期の繁栄期から一転して1929(昭和4)年以降、苦境にあえぐことになった。主な従業員の独立や協力者の撤退が目立つようになり、人が去る一方で借金は膨れ上がっていく。経営の整理緊縮を迫られ、1932(昭和7)年には丸ビル1階から3階に事務所を移した。創業者の田中啓次郎社長の私宅も抵当に入れて返済の足しにせざるを得なかった。「これが本当の創業の苦しみだった」と田中は後に回想している。 経営
経営・事業 人が去り、一方で借金にも追われる 1929(昭和4)年 輸入禁止と円暴落のダブルパンチを浴びた日本事務器商会は、第一期の繁栄期から一転して1929(昭和4)年以降、苦境にあえぐことになった。主な従業員の独立や協力者の撤退が目立つようになり、人が去る一方で借金は膨れ上がっていく。経営の整理緊縮を迫られ、1932(昭和7)年には丸ビル1階から3階に事務所を移した。創業者の田中啓次郎社長の私宅も抵当に入れて返済の足しにせざるを得なかった。「これが本当の創業の苦しみだった」と田中は後に回想している。 経営
1934(昭和9)年 経営・事業 田中啓次郎社長が代表の座を追われる この時期、資金面で経営の支援を受けていた人々がいた。ところが彼らは、それまで融資した額を一括返済するように要請し、できなければ田中啓次郎社長に代表を退くよう求めた。事実上の乗っ取り宣言である。田中社… 詳しい情報を見る 経営・事業 田中啓次郎社長が代表の座を追われる 1934(昭和9)年 この時期、資金面で経営の支援を受けていた人々がいた。ところが彼らは、それまで融資した額を一括返済するように要請し、できなければ田中啓次郎社長に代表を退くよう求めた。事実上の乗っ取り宣言である。田中社長はこれを受け入れざるを得ず、1934(昭和9)年に合資会社日本事務器商会の本社を去り、丸ビルには新たに日本事務器合資会社の看板が掲げられた。ほかにも債権者が多い東京からくろがね工作所がある大阪に拠点を移した田中は、東の販売拠点をくろがね工作所東京販売部に置いた。 役員経営人事写真商品
経営・事業 田中啓次郎社長が代表の座を追われる 1934(昭和9)年 この時期、資金面で経営の支援を受けていた人々がいた。ところが彼らは、それまで融資した額を一括返済するように要請し、できなければ田中啓次郎社長に代表を退くよう求めた。事実上の乗っ取り宣言である。田中社長はこれを受け入れざるを得ず、1934(昭和9)年に合資会社日本事務器商会の本社を去り、丸ビルには新たに日本事務器合資会社の看板が掲げられた。ほかにも債権者が多い東京からくろがね工作所がある大阪に拠点を移した田中は、東の販売拠点をくろがね工作所東京販売部に置いた。 役員経営人事写真商品
1937(昭和12)年 経営・事業製品・商品 バイデキスが好調、第二の繁栄期に 1937(昭和12)年に大阪のくろがね工作所販売部は、西区京町堀の京町ビルに移転した。ここに代理店業務を担当する地方部が置かれた。この年に北海道から九州まで全国に50を超える代理店を展開。受注先が増… 詳しい情報を見る 経営・事業製品・商品 バイデキスが好調、第二の繁栄期に 1937(昭和12)年 1937(昭和12)年に大阪のくろがね工作所販売部は、西区京町堀の京町ビルに移転した。ここに代理店業務を担当する地方部が置かれた。この年に北海道から九州まで全国に50を超える代理店を展開。受注先が増加するとともに、1件当たりの納入台数も数十台から100台規模に拡大していった。翌1938(昭和13)年1月には福岡支店を開設。続いて朝鮮、台湾、満州にも代理店の販売網を広げていった。田中啓次郎の日本事務器商会は第二の黄金期を迎えたのである。この頃について田中が「ほんとに儲かる。まったく金持ちになったという実感がありました」と語ったのもうなずける。従業員にも収益が還元され、半期で最低6カ月の賞与のほかに中間賞与も出された。 経営組織営業写真商品
経営・事業製品・商品 バイデキスが好調、第二の繁栄期に 1937(昭和12)年 1937(昭和12)年に大阪のくろがね工作所販売部は、西区京町堀の京町ビルに移転した。ここに代理店業務を担当する地方部が置かれた。この年に北海道から九州まで全国に50を超える代理店を展開。受注先が増加するとともに、1件当たりの納入台数も数十台から100台規模に拡大していった。翌1938(昭和13)年1月には福岡支店を開設。続いて朝鮮、台湾、満州にも代理店の販売網を広げていった。田中啓次郎の日本事務器商会は第二の黄金期を迎えたのである。この頃について田中が「ほんとに儲かる。まったく金持ちになったという実感がありました」と語ったのもうなずける。従業員にも収益が還元され、半期で最低6カ月の賞与のほかに中間賞与も出された。 経営組織営業写真商品
1940(昭和15)年 経営・事業 債務を完済し丸ビルでの事業を再開 業績の回復により、田中啓次郎は負債を一気に債権者に完済した。1940(昭和15)年のことである。これに伴い日本事務器合資会社の代表となり、名実ともに経営者の座を取り戻した。東京では丸ビルに支配人を置… 詳しい情報を見る 経営・事業 債務を完済し丸ビルでの事業を再開 1940(昭和15)年 業績の回復により、田中啓次郎は負債を一気に債権者に完済した。1940(昭和15)年のことである。これに伴い日本事務器合資会社の代表となり、名実ともに経営者の座を取り戻した。東京では丸ビルに支配人を置いてくろがね工作所東京販売部と合わせて活動した。大阪のくろがね工作所販売部も継続し、1944(昭和19)年10月に日本事務器合資会社大阪営業所となった。なお1940(昭和15)年時点で従業員は丸ビル5~6名、東京販売部10名、大阪営業所約30名の陣容であった。 役員経営組織拠点
経営・事業 債務を完済し丸ビルでの事業を再開 1940(昭和15)年 業績の回復により、田中啓次郎は負債を一気に債権者に完済した。1940(昭和15)年のことである。これに伴い日本事務器合資会社の代表となり、名実ともに経営者の座を取り戻した。東京では丸ビルに支配人を置いてくろがね工作所東京販売部と合わせて活動した。大阪のくろがね工作所販売部も継続し、1944(昭和19)年10月に日本事務器合資会社大阪営業所となった。なお1940(昭和15)年時点で従業員は丸ビル5~6名、東京販売部10名、大阪営業所約30名の陣容であった。 役員経営組織拠点